寒かったり、暑かったり、また寒くなったり。
なんだか気象が安定せず体調を崩しがちな人も多いですよね。
そこで、ハタと気づいたんです。そういえば、お茶の世界というのはおもてなしの文化。
冷暖房のないお茶室で、昔は客人が快適に過ごせるように、どのような施策を打っていたのだろうと。
そこで、十字町商店会にも所属する、表千家の正井風玄先生にお話をうかがったところ、
そもそも茶人というのは…。
さあ、日本の伝統的な精神を持つお茶のこと、少しだけ知ってみませんか。
(全3回の最終回)
第一回
第二回━━前回、利休の切腹後、享保年間に入りお茶が庶民のものに移り変わるという部分までお聞きしていました。庶民のものになるということはやり方というか、作法のようなものを教える場ができたんでしょうか。
正井風玄先生 そういったものは式法と読んだほうがいいでしょう。式法やその他全般を教えるものは、利休の時代にはなかったと思います。やり方というものはありましたがなにかに記載したり、はっきりと全て説明するという場もなかったのではないかなあ。
分かりやすく言うと、いわゆる現在のお稽古のようなものではありませんでした。利休の茶会に招かれた人が見て覚える。そういうものでしょうね。なにせ庶民にお稽古する人というのがいません。
政治の舞台にでものし上がらなければ目にすることもない。
━━そうか! 享保年間以前ではお茶は国盗りの場にもなったものですものね。それはお稽古のような場であるはずがない。
正井風玄先生 そう、その通り。さて、享保年間になぜこれが変わったのか、それは前回お話しした覚々斎(かくかくさい)が千家の養子で庶民的な感覚も持っていた、という理由だけではないですねえ。
覚々斎は紀州の殿様に取り立てられてお茶を点てます。この紀州をはじめとする、尾張、水戸というのはその当時徳川御三家と呼ばれ徳川家を継ぐ権利を持っていた。
御三家の中でも水戸は江戸城に近く、黄門様で有名な水戸光圀もいますから次の将軍は水戸から選ばれるだろうと思われていたところ、どういう訳だか紀州の殿様が選ばれた。
これ、徳川吉宗なんです。そして覚々斎は徳川将軍のお茶を点てることになる。
━━そこにつながるんですか! これはドラマチックな展開だ!
正井風玄先生 そうでしょう。まだ続きます。
吉宗は将軍になれば紀州を離れて江戸城に入る。そのときに覚々斎も江戸城に入ります。しかし江戸城には片桐石州という人物がいた。この人は大名ながらお茶をやっている人物で石州派という流派も持っていた。
ただの茶人ではなく大名ですから絶対的な権力を持っていた訳です。
そうすると、江戸城では石州がお茶を点てる。
吉宗だけに覚々斎がお茶を点てるということはできませんから、吉宗は「禄は与えるので、ときどき紀州でお茶を点ててくれ」と話して覚々斎を江戸城から出し、茶碗を与えて京都の千家に帰します。
ここで覚々斎は初めて弟子をとるんです。これが庶民に流布するきっかけとなる訳です。
━━さまざまな要素が複合して重なることで、庶民にまでおりてくるんですね。
正井風玄先生 当時の京都ではこのお茶が受けた。新しいもの好きの京都人たちが人づてに伝えることを繰り返して、表千家の門道には人があふれるほど入門してきたそうです。
覚々斎の息子は如心斎(じょしんさい)と言って、この人の時代になってからは江戸千家をたてた川上不白(かわかみふはく【第一回の記事にも登場】)がいたり、名古屋の松尾流が弟子になったり、また、覚々斎の子供たちが武者小路千家の官休庵に後をついだり、兄弟で流派を引き継ぎと、覚々斎を中心にまとまっていく。
これだけ大きくなれば当然のことながら京都の宮家とも付き合うし、お寺のお坊さんとも付き合うし、絶大な力を持った。
これが今のお茶の始まりです。
現代のお茶はここから始まったんですねえ。だから利休とも違う、覚々斎・如心斎の影響が色濃く出ている。
その後、幕末に表千家の吸江斎(きゅうこうさい)の時代に一部の隙もなく式法が作り上げられます。
ここでようやく完璧に表千家の茶道はできあがりました。
時間がかかりましたね〜。
━━てっきり千利休が完成させたんだと思っていました。
正井風玄先生 利休が完成させたのは抹茶茶道なんです。茶道という世界観、特に思想を作り上げました。
━━そこから、変化というか、進化しながら現在に至るんですね。
正井風玄先生 うん、変化というよりも進化だね。利休の思想、根底は変わらない。
ただ、大改革という意味では覚々斎の時代と言えると思います。教えやすい、伝えやすい、というものにした功績はここにあるでしょう。
━━ここまでお聞きしていて、いかに壮大な歴史を持っているかが分かりました。現在では日本を飛び出して海外でもMatchaという言葉は通じるようになってきました。中には外国人の方が海外に茶室を設けるなんてお話もお聞きします。これから、お茶の世界も新たに進化していくことはあるんでしょうか。
正井風玄先生 私が思うに、式法、つまりやり方は変わるだろうと思っているよ。
早い話、座れない、という人に対する対処だね。
畳に座る文化というものがなくなってきた。そうすると椅子の文化になってくる。
椅子の文化というとこれは中国の文化です。西洋ではなく、中国の文化に還るしかなくなる。
━━たしかに、自分も昔バスケットボールで膝を痛めてしまって。正座ができずに、法事などの場合は車座になったりしていたのですが、ここ数年で背の低い椅子が用意されることもあって。
正井風玄先生 うん、まさにそれです。既に茶会で椅子が出てくるところもあると思います。
ただ、全体の観念が変わるのにどのくらいの期間が必要かというと、なかなか予想は難しい。100年くらいでは変わらないかもしれない。
そもそも、なぜお茶は畳の上で正座をして行うかをひもとけば平安時代までさかのぼる必要がある。この時代は板場ですから、畳なんてありません。そこに丸い円座を敷いて生活していました。
あとはゴザを敷く程度。真四角の家で板が敷いてある。それが当時の住居の基本です。
それが貴族が世襲制になることで、押し板という少し高いところをもうけてそこに自身の家の守り神となるものを置くようにした。お家を守ってくださいね、と、こういう訳です。
ただ像などはできあがるまでに時間がかかるから、中国からやってきた掛け軸をかける。これはいらなくなれば簡単にしまえるように巻物になっている。
こういったものを家の中に置くためには、巻物ですから八足という神社なんかで使用される机のようなものを用意した。
そのうち押し板には畳が敷かれるようになる。
そうして畳が敷いてあると暖かいしやわらかいということで、家全体にも敷かれるようになる。
まずは宗教的意義のあるものとして、そこから生活の便利アイテムとして流布していった訳です。
そしてこのとき、仏教が伝来してきます。
仏教というのは椅子に座るのではなく床に直接座る。ならば畳を使用しよう、と、お茶の世界では畳に座るというものに式法がなっていく。
こうした背景を考えると、これが現在までずーっと続いている訳ですから100年くらいではなかなか変わらないのではと思うんです。
━━なるほど、畳に座るというのはそもそも日本人の宗教観が基になっているんですね。そうすると、たしかにもっと人種が入り交じって日本人の根底にあるものが変わっていかないと、そこまで大きな変化は起きにくい。
正井風玄先生 と、思いますがねえ。しかし、現時点でも1つだけ大きく変わったものがある。
お茶というものはある意味思想です。しかしながら、これは既に私たちと若者の間では認識がずいぶんとちがう。
昔のお茶といえば、茶室で師匠が茶を点てたりするのを見て、話しているのを聞いて、所作やそのほかのすべて、これはどのような考えで今目の前でこのようなことをしているのか、に至るまでですが、探りこんで、そしていいものは全部自分のものにして、いらないものは捨てるというのを毎日繰りかえしていました。
今はそうではありません。自分に取り込むというのは少なくなりましたね。
多くがスマートフォンなどでやり方を調べる、いわゆる自分自身の外部に知識を置くようになりました。
たとえば「どのくらい所作を覚えましたか」と聞くとスマートフォン上にメモしたものを明示して、これだけ覚えました、と言う。
お茶についての話をしているときにスマートフォンを取り出して調べて、これですか? と聞く。
これは自分では覚えていない訳です。自分ではない外部に記録されたものを引っ張り出して披露しているんですね。
今京都の家元に行けば、私なんかは一番古いんですが、私とそれほど年の変わらない後輩でも、やはり茶室の中でもスマートフォンを操作します。
私の師匠が生きているころには、こういった習わしはありませんでしたからここ20年ほどでしょうか。
だからもう少ししたらこれが、お茶の世界に入り込んでくるのは、とも思っています。
━━たとえば、アプリで作法や、やり方を順序立てて解説していくような…。
正井風玄先生 うん、そういうものが開発されるかもしれない。
ここまで話してきたような、中国から大変な苦労をして入ってきた茶の種が、さまざまな物語を経て紡いできた文化、哲学というもの、こういうものは非常に少ない人間だけが持つもの。
そんなものになるような気がするねえ。今も天然記念物のようなものかもしれない。
しかしながら、文化、哲学というものも消えることはない。少なくなっても、茶を点てるかぎり根幹にあるものはなくすことができません。
こればっかりは、言葉にできない、画にできない、音にできない、スマートフォンには入れられない。
たとえば、侘寂(わびさび)、と、お茶について話すときによく出てくる言葉があります。
それで、聞く訳です。
では、侘寂とはなんでしょう。
ほとんどの場合明確に答えられる人はいません。
これは経験しないと分からない、そもそも、経験できるほどお茶というものについて絞り込んでいないと分からない。
そういう部分です。本当に絞り込んでいくと「あ、これがそうか」と理解する瞬間がある。
これが一度なのか、数度なのかは分かりませんが、それを繰り返すことで、少しずつ自分のなかに茶道の思想を根付かせていくという手順が必要です。
いま、そこに色即是空とお経の文句をかけています。
これは、私の師が名を後の者に継いだときに書いた最後の一筆です。
書いたときには「ここまで来てようやく1つの世界が分かった、ここまでくればいいと思わざるをえない」と話して私の目の前でお書きになった。
色即是空、空即是色という言葉の一説ですが、これ、なんとなく分かりそうな気がしますね。
現代語に近くしてみましょう。「色すなわち、空なり。空すなわち色なり。」うん、なんだか理解できそうです。
でも、何かと聞かれれば答えられない人が多いと思います。
私ならば「色すなわち空なり、つまり色はない、そして空すなわち色なり、つまり色はある。有は無なり、無は有なり、ということです。」
と答える。
もっとわかりやすく説明すると、この掛け軸は表に色即是空と書いてある。そして書いてない方を裏とする。表の字を見れば表に文字が書いてあることは分かる、では、この状態で、裏には何も書いていないことが分かりますか、ということなんです。
もちろん、裏返せば文字が書かれていないことを確認できます。でもね、そうすると裏返すことで裏は表になり、表は裏になる。これでは分かったことにならない。
表を見て、裏に何も書いていないことを知る、これが本来の意味です。
逆に、裏を見る、そして裏には文字が書いてないけれども、表に文字を書いていることを分かりなさい、ということです。もちろん裏返すことなく。
━━これは…、また文章に落とし込んで、読者の方に理解していただけるか、僕の腕前では無理かもしれません…。
正井風玄先生 (笑)。
お茶を舞台にもっと具体的な例にすると、もてなす側の亭主が点前をしているときに、客を分かれ、ということです。
それは「亭主が客になれば分かりますよ」、という話ではないんです。亭主が客になってしまったらそれは客であって亭主ではない。
亭主である中で、亭主のことなんて何も分からなくていいから、客のことを全部分かれというものなんです。
その逆に、客である中で、客のことなんて何も分からなくていいから、亭主のことを全部分かれということです。
客である人が「亭主になって点前をすれば分かります」いえいえ、違います。亭主にならずに客である中で、亭主のことを全部分かる、これが色即是空 空即是色です。
これが、突き詰めていくと侘寂につながる。
自身が亭主のときは自分は裏側なんです。客が表です。ですから点前をしているときにも、表側に心をくだかねばならないんです。
なんなら、点前をしているところと客の間に壁があってもいい。
そうすると、点前をしているときに客の姿が見えず、また表情も息づかいも分からない。これではお点前にならないと思うでしょ?
見えているから、今誰が来た、とか、お座りになったから点前を始めます、とか、そういうことが判断できている。これでは、侘も寂もないんです。客のことを、本当の意味では見えていない。
なにも見えていなくても「ああ、こういう心持ちで来ていらっしゃるのだから、早く準備にとりかかろう」とか「少しゆったりしてから始めた方がよさそうだ」なんてことが分かる、これがお茶の根幹です。
━━10年、20年では…。
正井風玄先生 分からないかもしれませんねえ。分かるかもしれない。
まったくとんがっているような人間性なら、すべてへこまして、丸いものはまん丸にして、自分の持っているものはすべて空にして、無にすることで、生まれてくる一滴の雫を大切にしながら自身の中に持って生きる。
そうでもしなければ侘寂は通じない。
まん丸にして、空にするにはどうするか、それは己を卑下することです。
堕とす。どこまでも堕として、徹底的に卑下する。
堕とすことによって相手を鎮める。
猛りくるった牛がこちらに走ってきて、そこに自分も走って行けば大けがをする。
そこで自分を堕とす。
スッと前にでて、鼻先でもちょこんと触る。受けて立たない。
そうして相手を鎮める。
これはいわゆるヨガとか、宗教とか、太極拳なんてのはこれの極限ですね。柔らかい動きの中で相手の中の感情を鎮める力。
━━先生のわかりやすいお話で理解できているような気になっているんですが、おそらく僕は入り口の序文ですら自身の頭に入っていないような気がします。
正井風玄先生 お茶の世界にいなければ分からないことかもしれません。
表層がいくら変わろうとこういった思想は10年や20年では変わりません。
変わるはずがないんです。正しく理解していれば。
この理解を経た先にあるのが、文化だと思います。
お茶の教室は、文化を教える場所です。お茶の点前を教えて、今日はこういった作法を教えたのでその対価にいくばくかのお金をいただく、という場所ではありません。
━━一代、二代で完成するものではありませんね。
正井風玄先生 そうかもしれません、ただ、一代でしかできないことでもあるかもしれません。
━━うーん…、なるほど…。いや、なるほどなんて言って分かった顔をできるような頭ではないのですが…。
正井風玄先生 まあ、そんなに肩肘張らずに。それならば、今分からないというのはこれから分かるということにつながるかもしれない。
決して、利便性を求めて外部に記憶するとか、お点前のやり方だけを覚えてそれを人に教えることを否定する訳ではありません。
10年ほど修行して海外で茶室を開く、いいことではありませんか。
ただ、この思想・文化を理解してお茶を点てることで、侘寂、枯れ、ほそり、といった神髄を理解している人も必要ということです。バランスです。
どちらかだけではだめなんです。
茶道具は置く場所に至る細部まで切り詰められています。これを真似してお湯を沸かして茶を点てる、というのも悪い訳じゃあない。
でもね、なんでここに風炉(ふろ)を置くのか、なんでここに盆を置くのか、なぜ亭主はここに座るのか、そういう理屈を理解していかないとたどり着かないところがあるんです。
お軸が1ミリかたむいているからと、帰る人もいます。「あ、今日は無駄だ、帰ろう」こうなる。なぜならお茶をいただくためだけに来ている訳ではないからです。
ここでなぜお帰りなのかを聞くこともない、言うこともない。
これが始まりです。
少し、お茶の文化を見ていただけたでしょうか。
━━決して、全体像を把握できた訳ではないんですが、わかりやすいお言葉で解説していただいて、なんとなく大きな形というのが垣間見えたような気がします。非常に貴重なお話をありがとうございました!
正井風玄先生 いえいえ、これが役に立てばいいのですが。こちらこそ、ありがとうございました。
今回掲載した記事で、どこまで正井先生のお話を再現できたか、というのは書いている僕ですら不安になるほど、深く、そして大きなものでした。
きっと実際に茶室に入ってみないと分からないことではないか、と、今では思えます。それほど、培われてきた茶道という道は、この数千文字の記事に落とし込めるものを超えていました。
今回の取材後に、お茶の話をする機会が何度かありました。そして、お茶に対しての正しい知識を持っているという人は誰もいなかった、と言って過言はないと思います(もちろん僕もそうですが)。
徐々に外国人観光客や日本に移住する外国人の方が増える中で、日本の文化の1つであるお茶を説明するときに「抹茶を点てて飲む場所だよ」と説明するのが、いかに日本人として浅い考えであるか。
正井先生のお教室では、いつでも生徒さんを受け入れていただけるとのこと。この機会に、本当のお茶、について知ってみるのは、きっとあなたの、これからに大きな影響を与えてくれる、そんな気がしています。
教えてくれたのは
茶道教授
住所 小田原市南町1-4-38
電話 0465-22-1283
営業時間 お問い合わせください
定休日 不定休