お茶と千利休の死

正井風玄

寒かったり、暑かったり、また寒くなったり。

なんだか気象が安定せず体調を崩しがちな人も多いですよね。

そこで、ハタと気づいたんです。そういえば、お茶の世界というのはおもてなしの文化。

冷暖房のないお茶室で、昔は客人が快適に過ごせるように、どのような施策を打っていたのだろうと。

そこで、十字町商店会にも所属する、表千家の正井風玄先生にお話をうかがったところ、

そもそも茶人というのは…。

さあ、日本の伝統的な精神を持つお茶のこと、少しだけ知ってみませんか。


第一回はこちらから

正井風玄

表千家の正井風玄先生に聞く そもそもお茶の世界って

2019年5月10日
正井風玄

━━前回まで、千利休の時代には庶民はまったくといっていいほどお茶を飲む機会はないとお聞きしていました。かなり力のある商家でもこの時代はお茶を飲むことはなかったんでしょうか。

正井風玄先生 飲むことはできます。ただし、条件付きで。

お茶の世界に入りたければ、まずは利休に近づいて茶会に参加する許可を得なければいけない訳です。

そうして茶会に参加して初めてお茶の仲間と認められます。これでようやくお茶を飲めるんですねえ。

現代で言うお茶会などとはまったくちがっていて、当時のお茶の世界というのは政治事情にも影響をおよぼします。

織田信長や豊臣秀吉などは次に攻める国の目星をつけ、その国のお殿様を招いて茶会を開きます。

ここで和睦などをもちかける訳です。うまくすれば血を流すことなく国を盗ることもできた。そういった場にも使われる訳ですから、敷居は高い。ものすごく高かった。

━━茶会にはそういう意味合いもあったんですね。これでは庶民は参加するどころかその場に近づくことも難しかったような気がします。

正井風玄先生 ええ、その通りです。高度な政治論争なども起こったでしょう。現代とちがって情報は隔絶されていますから、たとえ参加しても、よほどの人物でなければ庶民には意味合いが理解できなかったかもしれません。

そして特に、秀吉は茶の場で多くの国を掌握したことも有名です。秀吉とお茶のお話では金の茶室が有名ですが、あれはこのような国盗りのためになくてはならないものでした。

金の茶室に入れられたら、それはもうひれ伏すしかなくなる、ということも多かったでしょう。

あれは秀吉の趣味で、利休は造りたくなかった、なんてことも言われますがね。実際茶会を開くと分かりますが利休の好みがしっかり出ていますよ。

正井風玄

━━どのような部分に利休の好みが表れているんでしょうか。

正井風玄先生 金の茶室というのは組み立て式です。普段は大きな引き出しにまとめていて、それをお客が来たときに組み立てて金一色の茶室にします。

そもそもこの使い方が利休らしい。常にギラギラとしてはいない。

そして金というのはね、現代の明るさで見るから、光り輝く金色に見えるんですよ。

しかしながら、昔は暗かった。現代住宅の部屋から考えると段違いに暗い。

なにせガラスなんてありませんからね。そんな中、茶室なんてのはロウソク1本なんかで照らします。

そうするとね、あの光り輝く金。

 

あれは、黒く見えるんですよ。

 

障子も赤い絹地の切れを貼っているんですが、これも現代の明るさで見るから赤い。

 

ロウソク1本で見ると、これもまた、黒い。

 

実際に金の茶室で茶会を開くとね、随分と落ち着いた空間になるんですねえ。

お茶を点てさせていただいたときも、やはり「なるほど、黒い」となった訳です。

正井風玄

━━そうなんですか! たしかにお公家さんも白塗りにしていたのは、現代に比べて屋内が暗かったため、なんて言いますが、金の茶室も現代とは見え方がちがったんですね。

正井風玄先生 そう、黒は黒なんですがなにせ金が醸し出す黒ですから、非常に重みがあります。

ああいう部屋に招かれたら、それは威光を感じざるをえない訳です。

秀吉もさることながら利休も侘寂(わびさび)だけではなくて、結構な派手事もお好きだったようですから、秀吉だけが気に入って作ったとは思えない訳です。

━━たしか、利休はもともと商人の方でしたよね。

正井風玄先生 ええ、大阪は堺衆の一員です。魚の干したものや海藻類なんかを商っていたお家だろうと思います。堺衆は中国などとの貿易で財を築いた商家の方達です。

そんな利休がお茶の世界で名を上げた要因としては、まだ利休が与四朗と名乗っていた時代に武野紹鴎(たけのじょうおう)という兄弟子がいて、この方は大変なお金持ちでこの人が利休を引き上げた、という可能性が高いんです。

よく利休がお茶を大成させた、という話がありますが、私なんかは裏に武野紹鴎や村田珠光(むらたしゅこう【じゅこうと読む説もある】)といった存在を感じます。

珠光はあまり記録に残っていませんがね。

まあとにかく利休の存在感というのは、大成ということよりも、お茶をああいった形式だてたものにしたというところでしょうか。

━━利休は最期は秀吉に切腹を命じられますね。これにはさまざまな説が唱えられていますが、正井先生の私見的にはどのような理由からだったと思いますか。

正井風玄先生 名の知れた人でしたから、いろいろ後から理由をつける人がたくさんいるんですが、きっと、秀吉と一緒にそろそろ死のうか、なんて決めていたのではないかと思っています。

力を持ちすぎた利休は、石田三成をはじめとする有力者に敵が多すぎた。そこでさまざまな人からうとまれる利休を秀吉もかばいきれなくなったのではと思っています。

そうでなければ磔獄門で殺されるということもあったでしょう。

実際切腹ではなく磔にすべきという声があった、なんていう話も聞いたことがあります。

当時は切腹や服毒自殺というのは、そこまで珍しくなかった。そもそも切腹というのは磔獄門などの刑罰とはある種違った、終わりの迎え方です。

戦国時代の死生観と言うのは現代人である私たちの想像が及ぶものではありません。

こういう時代の一つの終わりの迎え方に、切腹というものはあながち見当外れのものでもなかったでしょう。

━━以前別の取材で切腹というのは、実際には「死んだ」という事実だけを作って、一部の有力者は名前や立場を変えていたのかもしれない、なんてことをお聞きしたことがあります。もしかして利休も…。

正井風玄先生 いいえ、それだけはありません。これははっきりと言えます。

利休の辞世の句は「人生七十」つまり人生は70年であるという言葉から始まります。

当時利休は閉門という監禁刑を受けていた。そしてこの辞世の句はいくつかの書として残して、垣根ごしに人に渡しています。

垣根ごしに渡せるほどですからそんなに大きなものではありません。このうちの1枚を娘である「おふく」に渡したとあります。これが回り回って冬木家という関東の材木座にあった材木商に渡ります。

この材木商はもともと紀州の山持ちで、紀州というと現在の表千家を盛り上げた川上不白(かわかみふはく)の故郷でもあります。そのため表千家とのつながりも強かったんですね。

そして、冬木家に渡った辞世の句。これを家元に戻してもらうために川上不白が赴き譲り受けます。そのお礼にと、利休が古田織部に送った武蔵鐙の文(むさしあぶみのふみ)と長次郎の茶碗を渡したそうですが。

辞世の句が家元に戻ったことで、みな大変な喜びようであったそうです。

この辞世の句、今でも家元に残っているんです。

それでね、この文を見るとね…「なんだろうな、これは」という気持ちが浮かんでくる。

人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這寳剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころさん)

とある。

「ころす」というのは現代語的な意味ではなく「越える」という意味です。先祖も仏も今初めて越えることができる、という意味なんですが、この【共】の字の書き方が、おかしいんです。

正井風玄

普通に読むにしては、細部が離れて書かれている。共という書き方は、こう読める。

「二十八殺」

つまり、28日に死す、です。

切腹する日にちを教えているんです。これが切腹して死なない訳がない。

誰が言っているというものでもありませんが、私にはそうとしか見えない。おそらく、皆さんも、見れば分かる。

そしてお茶の世界は利休の死を持って、現在まで精神性がつながっていきます。

これは、まったく変な話ですが、強いて例えるならばイエス・キリストと同じです。

宗教ではありませんが1人の死を組み込んだ形で茶道は形成されている。

少し話は戻りますが、たとえばさまざまな人たちが後世で唱える利休の罪。これによって利休が裁かれ、罪人として処刑されていたとしたら、今の茶道というものはあるでしょうか。

まあ、切腹というのは重い罪ですから、もちろん影響はありました。利休下駄とか、利休饅頭とか、利休という名の入ったものは「休」を「久」という漢字にすげかえたりした。

今も同じように漢字を「久」のままのものもあります。

しかし、大罪人が研鑽していたものを、死後武士達が取り組むかどうか。古田織部も織田有楽斎もそう。

切腹は武士の鑑であり、あの切腹は、今茶道があり、切腹後も有力な武士達が嗜んでいたということに、内包された意味がある。

正井風玄

━━表面的な歴史だけでは推し量れないものがありますね。

正井風玄先生 そうですね、恐らく一番的確と思われるタイミングで切腹となったと思います。

この後に言われる利休のことは全て付け足しです。秀吉に話が通じた上で切腹をしたことで、利休のお茶は完成していた、そう思いますけれどね。

その後、徳川家康の時代になる。

家康はお茶のような文化があまり好きではなかったようで、茶碗などは集めていたようですが、あまり茶道は嗜まなかった。

利休のこともありますからお茶の世界は派手に表だたなくなります。

利休の孫の宗旦(そうたん)も大名などには仕えず生活を切り詰めていたことで、乞食宗旦などと呼ばれていたそうです。

━━華やかな政治の世界から一挙に転落ですね。

正井風玄先生 そうなんです、ただし、享保年間、つまり江戸時代の真ん中くらいでしょうか。覚々斎(かくかくさい)という表千家の人間の時代になると、利休の子供や血のつながりがある人物に対して興味を持つ大名が現れる。

「ウチには利休の血筋がいる」とか「利休の弟子が」と言うようになった。別になにをするという訳でもないんですが“いる”ということに価値を見出すようになる。お茶への関心度の復興です。

そして紀州の殿様が覚々斎を招いて茶会を行うようになる。この覚々斎は久田家(ひさだけ)という家から養子として表千家に入っています。つまり、庶民的素養をもっていた。

これが、お茶の世界の中興の祖です。

ここから、お茶は上流階級のたしなみから、庶民のものへと変わっていきます。

 

最終回は下記リンクから。侘と寂。

正井風玄

侘寂(わびさび)について

2019年5月12日

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編集者、ライターの のじさとしです。ラーメンを食べると胃にくる30代。新聞社→出版系の編集プロダクション→自転車屋さんとライター編集業の兼業、と順調に一般社会人のレールを外れています。商店会では撮影、ライティングなどを担当しています。