寒かったり、暑かったり、また寒くなったり。
なんだか気象が安定せず体調を崩しがちな人も多いですよね。
そこで、ハタと気づいたんです。そういえば、お茶の世界というのはおもてなしの文化。
冷暖房のないお茶室で、昔は客人が快適に過ごせるように、どのような施策を打っていたのだろうと。
そこで、十字町商店会にも所属する、表千家の正井風玄先生にお話をうかがったところ、
そもそも茶人というのは…。
さあ、日本の伝統的な精神を持つお茶のこと、少しだけ知ってみませんか。
(全3回の1回目)
━━先生、今日はお忙しい中ありがとうございます(本当にお忙しい中お時間をとっていただきました)。
正井風玄先生 いえいえ、さ、まあ一服。
━━(お茶をたてていただきました)ありがとうございます。母はお茶を習っているんですが、なにぶん僕は不調法で。失礼します。
さっそくなんですが、昔の茶人は客人をもてなすというときに、冷暖房のないお茶室でどのようなことをしていたのかという部分をお聞きできればと。
正井風玄先生 そうですねえ。
たとえば今日なんかは明け方急に冷え込みましたよね。昨日はあたたかだったので炉(ろ)をしまっていました。
もしも今日茶会があれば、朝早く起きて畳をはがして炉(ろ)に火をいれるでしょう。
また、もしも茶会までにあたたかくなれば、その炉をもう一度しまって風炉(ふろ:火鉢のように炉よりも小さく火力を弱く設定できるもの)に炭を入れます。
そしてそれを客人には悟られず、なにごともなかったように茶会を進めます。
これが、もてなしということになりますでしょうか。
━━なるほど…、いや、なんと言えばいいのか…。これを文章にするとなかなか伝わらないと思うんですが、1つの例え話に全てが詰まっているような気がします。
実に分かりやすく、お茶を知らない僕でも随分と深い奥行きを感じるお話でした…。
正井風玄先生 いやいや、そんな風に思っていただくほどのお話でもないんですが。ただ、お茶というのは今風に言うならライフサイクルに組み込むもの。生き方なんです。
だから、暑いからこうする、寒いからこうする、というような場当たり的なものではなくて四季というのはめぐるものでございますから、その四季の中で快適に過ごす、そのためにお茶を一服いただいて健康に生きるというものです。
寒いお茶室では暖かく、熱いお茶を。また暑いお茶室では、外よりも幾分涼しく、またおいしくいただける温度のお茶を。
健康に生きるために、日々飲むお茶をおいしく飲むためにどうすればいいかを考えるというのが根本です。
━━以前商店会のHP製作の際にお話をうかがったときに、栄西禅師(お茶を日本に初めて広めた人)の喫茶養生記のお話をしていただきました。
正井風玄先生 ええ、喫茶養生記は栄西禅師がお茶についてしたためた書で「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり」と書き出します。つまり、お茶、ここでは濃茶のことを指しますが、これはお薬として日本に入ってきました。もちろん、中国大陸からです。
そもそも日本にお茶が来たときは、もちろん今のように粉状の抹茶ではありません。実や葉の状態でした。それを栽培して茶葉を摘みお茶をいただくようになります。
ただし、現在のお煎茶のように焙じたりもしていません。なにせお薬ですから生のままいただくのがいいとされていました。しかし生ですから、アクが強くて随分と飲みにくいものだったようです。
そしてもっと飲みやすくするために、蒸したり、煎ったり、煮出したり、粉状にしたりします。これは中国から来たやり方で、いわゆる漢方薬の考え方です。
まあ、さまざまな方法が試されますが生のままをそのままいただくには、粉状にして茶筅で空気を含ませたほうが飲みやすい、となり、現在に至る訳です。
中国からやってきたお茶ですが、今のような形でいただくというのは日本独自の発展方法です。
もちろん中国でも粉にしていただくという方法はあります。ただし煎じてから粉にして食事に取り入れたりしている。
生のまま粉にして茶碗で点てて飲むというのは日本だけです。
おそらく当時は現在のようなお茶になるとは想像もつかなかったでしょう。
━━お薬として入ってきたものがこれだけ広く一般に流布したのは、どのような経緯があったんでしょうか。
正井風玄先生 古文書や大陸から来た写経なども含めて考えてみると、中国にてお茶やその他のことについて学んだ栄西禅師が九州に渡って、京都の栂尾(とがのお)に行き、源頼朝の命を受け近江、静岡、そして鎌倉へと渡ってくる間に茶の実を植えていったという可能性があります。
当時、栄西禅師を始めとするお坊さんたちがなぜ中国に行ったかというと、なにも宗教的教義だけを学びに行った訳ではないんです。簡単に言うと中国の文化や生活様式をいただくために渡りました。
今の日本文化もなんの影響も受けず、日本で新しく作られたというものは少ないですね。中国だけではなく現在の韓国や大乗仏教などにも代表される東南アジアの文化など、いいものをすべて取り上げて日本文化を形成していきます。
そしてこの形成という部分を担ったのは栄西禅師たちお坊さんです。
さまざまな土地にお坊さんが訪れたり根付くことで、中国やそのほかの大陸で学んだ稲作のやり方だとか食事の煮方、焼き方など、多くの知識を授けていく。
当時のお坊さんたちに留学生という言葉を使うので現代的な感覚で考えがちですが、まったく意味合いが違います。
語学や一部の文化だけではない、国を丸ごと輸入するような、そういった広い勉強をしてくる訳です。
栄西禅師もおなじようにさまざまな知識を会得して、日本各地で授けたでしょう。そして鎌倉へとやってきて、お茶の飲み方、製造方法、粉にする方法などを喫茶養生記へしたため、源頼朝に献上します。
実は頼朝はぜんそく持ちで、頭痛持ちで、不眠症で、と、持病の多い方だったようで、これらの症状はお茶を飲むことで治ったそうなんです。
そして栄西禅師はお寺を開き今度は庶民たちにも同じ知識を授けていく。
そうしてお茶の効能だったり役割だったりというのは日本に根付いていきます。
━━庶民にも流布したというのはそういった背景だったんですね。
正井風玄先生 ええ、ただし庶民が実際にお茶をいただくようになるまでにはもっと時間がかかります。
なにせ今で言う定期的な輸入便のようなものはありませんから、遣隋使や遣唐使が持ち帰ったものしかお茶の実自体ない訳です。そのため高価なものだった。
そうして栽培したものに関しては上つ方(位の高い人)だけで消費されていきます。
お茶というのは漢方と同じです。西洋のお薬であれば1錠飲んで即効性がある、その代わり副作用がある、というものでしょうが、漢方というのは継続して飲み続けて効果が表れるんです。
供給数の少ないものを飲み続けるのだからお金もかかるし、そもそもお茶をたてたり用意をするのにも時間がかかる。お金も時間もある人だけのたしなみでした。
だから歴史のあるお茶屋さんは、だいたい○○家御用達といったものを掲げています。なかなか庶民向けというものはありませんでしたからね。ほとんどの場合、○○家御用達です。
江戸時代にもなるとそういう上つ方が少なくなっていきます。そうして、ようやく庶民、特に商家のかたたちのほうがお金も時間もあるようになってお茶をたしなむようになります。
━━江戸時代になっても、一部の人間だけがお茶を飲める、ということなんですね。
正井風玄先生 ええ、その前、千利休の時代なんていうのは、もっと狭い世界でした。庶民でお茶を飲んでいるということなんてほとんど、というよりも、まったくといっていいほどない訳です。
第2回は以下のリンクから。