三の丸小「青い目の人形」の由来
今、NHKドラマ『青天を衝く』で渋沢栄一の物語が流れていますが、彼は、日米親善協会の会長として、日米関係に尽力した人でもありました。
昭和2年のことです。大正時代が終わってまだその名残が残っている時でした。
その時、どういうことが起こっていたのでしょう。
今、アメリカでアジア人種が排斥されている状況が起っていますが、それとよく似たことあったのです。
その当時もアメリカの世の中から日本人が排斥されて、いやな空気が生まれていたのです。そんな時、アメリカと日本が仲良くしていかないといけないと言って運動を起こしたアメリカ人がいました。
日本で長らくキリスト教の布教に尽力していたギューリック神父です。
日本人はこよなく人形を愛し、3月3日のひなまつりには、ひな人形を飾ってみんなでお祝いをする習慣をよく理解していました。
アメリカへ帰国すると全米に提案をしました。
「将来の平和のためには、子ども達に友好、親善の心を育てなければならない」
この呼びかけに応じてアメリカ人の子ども達が手作りで人形を製作することになりました。
子ども達は、お小遣いを貯めて、針と糸で洋服を縫い、帽子も作り、ソックスもはかせたとてもかわいい人形を作りました。
全米から1万3000体もの人形が集まりました。日本のひな祭りに合わせて、はるばる船の旅で横浜の港にやってきました。
港に着いた時にはそれはそれは、大変な出迎えになったのです。
それには、実業界の大御所渋沢栄一の計らいがあったのです。
人形には、迷子になるといけないといって、住所と名前を書いたパスポートが添えられていました。そして手紙もそばにありました。
「私は、メアリといいます。私は、日本の言葉が分からないので、どうぞ私をやさしくかわいがって下さい。」
日本の子ども達がさっそく手に取ってみると青い目をパッチリ開けて「ママァーママァー」と声を出したのです。
子ども達は大変喜んで「私にもだかせて私にもだかせて」と引っ張りだこになりました。
日本全国から私の学校にもと方々から希望者が出ました。
北は北海道から南は九州まで日本の各地の小学校や幼稚園へ送られていきました。
この小田原にもやって来ました。
学校では、みんなで歌を歌って人形を迎える会を開きました。【注1】
日本の友達とはすぐ仲良しになりました。
朝登校すると「メアリちゃん、おはよう」とみんな声をかけて教室に行きます。
それから十年位すると、日本とアメリカは大変仲が悪くなりました。
昭和16年、とうとう大きな戦争をするようになってしまったのです。
日本の全土にB29が爆撃をし、町は焼かれ、たくさんの人が死に、家を失いました。
そういう時代の中、「アメリカから来た人形だ。憎いアメリカの人形だ。焼いてしまえ。燃やしてしまえ。」「日本と仲良しになるためにやってきた人形だ。」と言ってそっと隠した
人がいました。
押入れの奥のほうに誰にも見つからないように隠したのです。
それこそ誰かに見つかったら大変なことになります。
このことは、ずっと内緒にされていました。
やがて、昭和20年に戦争は終わり、また平和な日がやって来ました。
学校の先生も変わり、子ども達も卒業してしまって、誰も青い目の人形のことなんか忘れてしまっていました。
戦争が終わって何年もたっていました。
ある日のこと、学校の備品整理をしていた時のことです。
押入れの奥の方に箱があることを発見しました。
その箱は虫に食われていましたが、ふたを開けてみるとあのみんながかわいがっていたメアリちゃんじゃないですか、取り出してみると青い目をパッチリ開けてみんなの顔を見ました。
今でもこの青い目の人形は三の丸小学校に大事に保存されています。【注2】
日本に送られて90年の歳月が立ちました。
日米親善の大使としての青い目の人形にみんなで思いをはせても良いと思います。
青い目の人形 (city.odawara.kanagawa.jp) 三の丸小学校のホームページより
三の丸小学校の城内小学校資料室の中にあるそうです。
- 昭和2年3月4日、新玉小学校では人形寄贈式を全校児童の前で行っています。
(童謡 青い目のお人形 (童謡歌手、内田由美子さん) – YouTube)
野口雨情作 1921年(大正10年12月)
青い目江尾下人形の真相は
セルロイドサロン 73 (celluloidhouse.com ) Wikipedia参照
- 三の丸の前身、城内小学校に贈られたもの。
メイサン・マーチスの名前がついていた。
(正しくは、メイサン・マテオであると検正された) 渡辺 喜充