片浦子ども風土記  郷土への情熱

-片浦子ども風土記-
郷土への情熱-内田一正さん

根府川に今生きていれば百八歳くらいになる内田一正さんという人がいました。
一正さんは、大正二年(1913年)の7月19日に根府川に生まれました。
根府川に伝わる昔からの「鹿島踊り」を後生に伝えようと保存会の会長にもなり県の無形文化財に指定されるように運動しました。
また片浦地区の歴史を調べ、昔がどのようであったかを明らかにしました。
そして調べたことをまとめ、何冊の本にもしました。
本といっても自分の手作りの本です。一冊一冊ワープロで打ち、プリントされたものを折り、ホッチキスでとめて表紙をつけたものです。これをみんなに配って歩きました。

その中の1冊に「関東大震災」についての記録があります。(注1)
それによると一正さんが十歳(小学四年生)の時です

大正十二年 (1923年)九月一日、その日はまだ夏の終わりが続いていてとても暑い日でした。

子ども達は、学校が二学期の始業式でしたのでいつもより早く帰ると海に泳ぎに行きました。(注2)一正さんは、その日は家の押し入れの中に入って幻灯機(スライド)を写す遊びをしていたのです。

十二時になろうととする時です。「ゴオー」という音がしたかと思うと家がドスンドスンと縦に大きく揺れました。
体が飛び跳ねるくらいでしたのでしゃがみ込んでしまいました。

天と地がひっくり返ったようなすごい地震だったのです。
縦揺れがおさまってしばらくするとまた地震が始まりました。

するとどこからか「山が来た。山が来た。」という叫び声が遠くの方でしました。
家を出てみると、白糸川の上流の方から今にも家を飲み込みそうな土煙を上げた山が滑り降りてくるではないですか。
一正さんは、家から近くの岩泉寺近くの小高いところへ駆け登りました。
あっという間もない出来事でした。

逃げ延びてみるとさっきまで居た自分の家はありません。家は海の方へ土砂で押しつぶされ、埋まってしまったのです。
この時、根府川の村は、すごい大量の土砂に流されて地獄となってしまいました。(注3)

やがて生き残った人々が山の大きな木の根元に集まって来ました。
何回もの余震が来るたびみんな口々に「ナンマンダ、ナンマンダ」と唱え行方不明になった人を心配しました。
一正さんの家族は命だけは全員助かりましたが家のものはすべて失い着のみ着のままとなってしまいました。
一正さんは、六歳の時、お父さんをすでに亡くしていました。一正さんは長男で下に小さな弟たちがいました。
お母さんは四人の小さな子ども達を呼び寄せ「このまま、死んでしまった方がよかった。」と泣き崩れました。

この時です。村のリーダーと思われる人から大きな声がかかりました。

「今から自分の家にあるものでも自分で勝手に食ってはならぬ。」すごい声でした。 これはどういうことだったのでしょう。
それは、これから生き残った人達が共同生活をするために、各家に残った食料を一カ所に集めてみんなで分け合って食べることでした。
幸い湧き水の出る所が一カ所だけ残っていました。
やがて炊き出しが始まり、小さなおむすびがみんなに配られました。
こうして、家をなくした人もおむすびを食べて生きる勇気が与えられたのです。

岩泉寺さんからも貯えてあったご供養米が出されたのです。
一正さんは、この時の記憶が一生心に残り。人から尽くされた親切、援助に対して恩返しをする気持ちが生まれたのです。
一正さんは昭和三年の尋常高等小学校を卒業すると片浦青年学校へと進みました。 その後片浦地区のリーダーとして活躍するのです。(注4)
いつも家の者に対して「人の面倒を見れるような人になれ。」というのが口癖でした。

(注1)一正さんはお寺の過去帳や遺族を訪問して調べました。
(注2)二十数名の子どもが海水浴中津波と山津波の犠牲になった。
(注3)山津波死亡者 二百八十九名
根府川百五十九戸のうち埋没家屋七十八戸
(注4)片浦青年団長として青少年育成に貢献
村会議員、中学校PTA会長、根府川自治会長を歴任

                                渡辺 喜充 氏 聞き書き

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