小田原用水は北条氏綱が早川の上板橋から取水し、板橋の旧道を通り光円寺前で今の国道1号線出て(そこから暗渠)、山王川の手前まで(そこまで暗渠)小田原の街中を通っていた。各町内へは各所に埋枡をもうけ、各個に流れる水量を高さで調整した。
また、大窪村(現板橋)の田畑に農業用水としても供給していた。上板橋に分水の施設があった。板橋から南町に水路が延びていて、今でも名残を見ることが出来る。
取水口海抜約23mから山王口海抜約5mと自然の落差を利用して水を供給していた。赤痢やペストが流行った時は飲用禁止になった。
北条氏は結婚の引き出物として千貫樋用水を作ったり、又家康の江戸開府の時には神田上水、小石川上水など江戸の水の手本となった。