小田原藩消滅・廃城その後

小田原城廃城のその後

南曲輪西隅櫓 小田原城天守閣を模したと言われる

慶応4年(1867年)の箱根戊辰戦争での小田原藩の処分は藩主大久保忠礼永蟄居となり家督は大久保岩丸(大久保忠良)が相続した。
明治元年6月忠良は小田原藩知事に、明治3年小田原城廃城。小田原藩知事を免ぜられる。
それに伴い小田原藩士は、それぞれ別の職につかざるを得ず、小田原を離れた藩士も多く、十字町界隈には中級の武士が住んでいたので、売り地や貸し地が多くあり、明治以降財力を持った人たちが別荘地として住んだ。

森 有礼(初代文部大臣) 藤館

森有礼がが早くに荒久(新久)藤館に住み、野村靖が神奈川県令となり本町に香夢庵を伊藤博文が本町に滄浪閣を建築、伊藤の最初の奥さんが野村の妹スミ子、離婚し伊藤は九州の芸者梅子と結婚する。梅子は日本初のファーストレディとなる。

伊藤博文 滄楼閣

益田が海3:山7の割合のところが良いと医者に言われ、野村に小田原城総構の外側の山林の契約をとりまとめてもらった。

板橋 掃雲台            小田原 掃雲台
益田は掃雲台を中心として、石垣山で里山の農場経営を行った。1次産品だけでなく、牛乳や缶詰工場、毛織物工場も有し、最終製品までした。益田は近代のお茶の文化を政界、財界、文化人の間に広めた。

第1次別荘地帯としては海岸近くが好まれ、小田原大海嘯後は天神山を中心とした丘陵地帯に多く住んだ。

小田原 御用邸

小田原城跡地に大正天皇の御用邸(明治34年)が建設され、閑院宮戴人親王も天神山に住み、益田孝が掃雲台の別荘地を建築(明治39年)山縣有朋が 古稀庵を建築、大倉喜八郎が共寿亭(後の山月)を建築、松下軍司の後を買った山下亀三郎が対潮閣を完成させた。

古稀庵

 

共寿亭(山月)

         対潮閣

小田原十字町界隈には、長州藩士や閑院宮、御用邸関係者、山縣閥の政界人、財界人、官僚、軍人などが多く別荘を構え住んだ。
小田原に住んだ著名人を順に紹介していきますのでお楽しみに!

 

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金子 不二夫

十字町ヒストリア責任者、有限会社ユニオン商会代表 十字町ヒストリアはここ十字町の近現代の歴史を中心に展示しています。 十字町地区に居住した著名人、ここ小田原が受けた災害被害、豆相人車鉄道、軽便鉄道、国府津湯本馬車鉄道、電気鉄道、市内電車などの記録、小田原の神社仏閣、小田原用水(早川上水)山縣水道、益田孝(鈍翁)の小田原での業績、などを保管していますので、気軽にお申し付けください。