益田孝(鈍翁)は鎌倉の別荘に行くと帰ってから体調が優れず、医者に相談したところ、より湿度の低い海3:山7の割合ぐらいのところがちょうどいいと言われ、親しい井上馨と同郷の野村靖(神奈川県令)に頼み小田原の板橋に居を構えた。
三井物産を退き、小田原の掃雲台で、趣味の世界に遊ぶだけでなく、今でいう里山で農業、林業、牧畜など実験農場を経営し一次産業の出荷でなく、最終の製品にして出荷するところまで行った。
みかん、とうもろこしなどは缶詰にして出荷、三井物産を通じ輸出まで、牧羊では毛織物工場まで作り三越で販売、仙石原の牧場で資料も作り中島に牛乳工場を作り、益田牛乳として売り出した。
牛や羊は御料牧場から種牛や羊を仕入れ、皇居に献上もした。
紅茶やチーズも作っていた。友人が若くして亡くなるのは贅沢な食事が原因だとして、慶応大学に寄付をし食養研究所を作った。
また、小田原用水で日本しじみ(蜆)も育てた。
小田原でもお茶会等を頻繁にひらき、お茶の仲間も多く呼び寄せたりした。山縣有朋(含雪)、横井半三郎(夜雨)、益田栄作(紅艶)、野崎廣太(幻庵)、小田原3茶人の一人として知られる松永安左エ門は所沢に住んでいるときに茶の道に引き込まれたが、益田の死後小田原板橋に老欅荘を建て夫人とともに住んだ。
三井関連の実業家たちも多数小田原に別邸を構えた。